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    ネイティファス
    淫語ボイスドラマ製作サークル ネイティファスのブログです。


    マインディアのチラシの裏的SS。何か書きたかった。雰囲気。


     陰鬱――私を永久に縛り続ける崇高な理としての、『怠惰』というごく絶対的規範が鬱蒼とした森の中で蠢いている。
     重苦しく狭い部屋は、雑多に散らかされた空のペットボトルとヨーグルト容器でごったがえしていた。
     私はこの世界には――たぶん発生してはいけない存在のように思う。
     他人との境界。紛うことなき漆黒の歪。
     深くほの暗い谷間が、地獄の釜のごとく大口を開けて静かに微笑んでいる。
     つまり、私は究極的に怠惰であるということだった。
     なぜかしら? 時を刻む体内時計は最初から壊れていた。
     既に朽ち果て腐食した針は、寂寥とした過去の鳥篭にとらわれて微塵も動く気配を見せない。
     生命として必要な、本来備わった本能知識はごく微細に、かろうじて崖下の一本杉にぶらりと垂れ下がっているだけだ。
     
     片付けられない女?
     違う、根本的に違う。

     私はあるがままの自分としてこの怠惰を謳歌している。
     物心ついた時から、ひっそりとこの空間を理想として生きてきた。
     薄高くこんもりと積みあがる過去の堆積物――私が私としてあり続ける理由。
     停滞しているものこそ美しい。手を加えずただ呆然と成り行きをみつめ、為すがままにして堕ちゆくべき限界まで切り詰めた先に存在する理想の桃源郷。
     本音を言えばただの不衛生なゴミの山だが、私にはある種の恍惚感と征服感さえ感じるのだ。
     断層のように折り重ねられ熟成された末に生まれるかけがえのない何か。排出脱出できずに悶え苦しむ独房死刑囚の断末魔――。
     怠惰は美しい。手放しで、放任主義で、やる気の一つも見せずに、生きる意味をなくしても、私はあるがままでいたいと思う。
     薄いシーツ一枚の白いベッド。
     ここだけは少し綺麗にしておく。
     私の目を楽しませる錬金術のお城を、一番心地よく観察できる場所だからだ。
     私の白い肌。もうどれくらいまともに日に当たっていないのだろう。
     思い返す記憶なければ、思い出す意志もないしエネルギーもない。
     生白い腕に同じく白い棒のような足も滑稽だ。
     ただ部屋の中をすすりと歩くだけの、わずかな筋肉繊維を身に纏っているにすぎない。
     私の水分は100%必ずミネラルウォーターで補給する。それ以外の水は飲まないというこだわりだ。
     そして一日の主栄養源として、三個のヨーグルトをすっかり萎縮しきった胃の中へとすすりこむ。
     もう何年もそんな生活が続いている。決して変革を求めず、ただ傍観する船長のごとく時の行く末をぼうっと見守っている――。
     諦観? いや諦めてはいない。
     私は――全力を尽くしている。
     限りなく最小のエネルギーを燃やし、最も有効な活動行為に心血を注いでいるのだ。
    「……………………(もぐ)」
     私は冷蔵庫に残った最後のヨーグルトを食べてみた。
     一人でも決して音をたてるようなことはしない。だって空気を振るわすのも面倒だから。
    「……………………(ごくごく)」
     水も飲んでみた。清流の匂いがする。澄み渡る渓谷の景色が私を白鳥に変えていく。血液から内臓まで心が洗われる。
     摩擦、空気抵抗、重力、人と人とのしがらみ。
     全てが霧の中へと消えていく。
     どうして、この世界はこうも重苦しいのだろう。
     もっと自由に、私の小さくて錆びついたギアでも軽々しく羽ばたけるというのに。
     ふわりと体が舞い上がる。宇宙遊泳のようにくるりと体が回転する。
     呼吸、思考、それすらも忘れてしまいたい。
     何かに委ねるもの――全てを任せられる存在?
     それが何かわからないけれど、きっといつかそこに辿りつければ――。
    「コトミ様? いますかー?」
     来た。奴らだ。
     私の崇高な妄想を中断させる、すえた臭いのするヒトモドキという化け物。
     這うようにして扉へ向かう。カチャリと掛け金をはずす。
    「コトミ様ー? いるんでしょう? 入りますですよー?」
    「…………………………(こく)」
     私は心の中で一度だけゆっくりと頷いた。二人には絶対にわからない極めて緩慢な角度と速度で。
    「あらあらー。こんなに汚して……。すぐお掃除いたしますね」
    「コトミ様! 言われたものを買ってきましたでございますわ!」
    「……………………(ありがと)」
     どさりとビニール袋が落とされる。中身は大量のペットボトルとヨーグルトと雑誌その他もろもろだ。
     私は無言で感謝の意をかろうじて示した。がやはり二人には聞こえていないし伝わってもいないだろう。私とはそういう人間だからだ。
     彼女達は――私には確か母がいたようで名前も思い出せないが、その母らしき人の命で二週間に一度ぐらい私の居城へとずかずか土足で侵入してくる。
     今早速掃除をし始めたのが緑、私の中では緑っぽい服なのでそう呼んでいる。
     対して語尾に妙なアクセントがあるのが紫、やはり紫だ。
     名前は必要ないし面倒だからどうでもいい。私の住まいに悪影響を及ぼす悪魔のような存在が二人だ。
     ただしやはり人間は悲しいかな。この二人のもたらす飲み物とヨーグルトがなければ、私はこの世界では生きていけない。本当に悲しいがそうなっている。
     別に死んでもいいけれど――。死というのも、やはり果てしなく面倒そうな気がして――、私の信条に反するような気がして――。
     自己矛盾? 自己倒錯? ああわからない。
     そんな鬱屈した思いを抱えながら、私は今日も流されるままに怠惰を取り込んでいる。
    「う、うわー。いつ見てもすごいゴミの山でございますよー」
    「さっさと片してキョウコさん。四の五の言わずにね」
    「はいなタミコさん。でも、私いつも思うのでございますけど、どうして全部片付けないんですか?」
     紫の方が当然の疑問を口にした。
     それにはちゃんとした明快な答えがある。
     理由――部屋の堆積物指数は60%以下になってはならない。そうでないと私の健康が害されてしまうからだ。積もり積もった部屋の中に所有されているという穏やかな安堵。心を満たし精神を落ち着かせる芳しく懐かしいような充足感。
     もしそれが取り払われてしまったら――私は即刻心臓麻痺で死んでしまうだろう。実際にはたぶん死なないがそんな確信がある。
     逆に、堆積物指数は多すぎても駄目だ。限界は150%。これを超えてしまうとパンクする。私は全然大丈夫だが部屋の方が耐えられない。
     現在は――ざっと120%。ここからが楽しい時間でもあるがまぁよしとしよう。
    「駄目なんですよぉ。ねぇコトミ様?」
     緑が言った。私は視線を微動だにせずテレパシーで合図した。
    「ねっ、コトミ様の言うことは……絶対です。お母様からそう事づけられていますから」
    「それにしたって……はぁ……。こっ、この……あ、いえ。何でもないですわ! さぁお掃除お掃除……」
     緑と紫はてきぱきと仕事をしている。
     私は当然のごとく待ちぼうけで見ていた。
     この人達は私のために動いてくれる。私のために。よくわからない母の命令でも色々としてくれる。
     でも、それでも――。

    「……………………(死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ)」

     そう言わざるを得ない。やはり異次元世界からのイレギュラーは排除されるべきだと思う。数パーセントでも私のお城を壊す可能性があるのであれば、それは許されることだと勝手に思う。
     そんな私の殺意思念も露知らず、二人の清掃活動は着実に進行していた。
     およそ指数にして75%。ちょっとスースーするが、これぐらいがちょうどいい頃合だと思う。三日もあればすぐに取り戻せる。
     私は一歩前に出て、ほんのちらっと目配せをした。これが、簡素な意思表示となる。きっと緑は気づいてくれるはず。
    「ふぅ……。綺麗に――なりました? ねぇキョウコさんお茶にしましょ。紅茶入れてくださいな」
    「あ、これで終わりですか? はぁ、了解いたしましたですわ!」
     どたどたとうるさい足音で紫が台所へと消えていく。紅茶は嫌いなのだがせっかくだから仕方ない。
    「コトミ様、ベッドのシーツもお代えしますわねー」
    「……………………(ありがと)」
     物言わぬ私。ひょいと牛歩の動作で敬礼し、緑の仕事ぶりを淡々と見つめ続けた。
     シーツ。純白のシーツ。
     私がいくら怠惰で穢れていても――これだけはゆずれないと思う。私の細胞100%を占める乳白色の根源。このベッドでいつも安らぎたい。
    「コトミ様……。私めが言うのもなんですが、その、このような生活は……。お母様も……あ、いえ、失礼しました……」
    「……………………」
     私の苛立ちが伝わったのだろうか。緑は背筋をぶるっと震わせてそのまま口をつぐんだ。
     記憶もない母のこと。そして私のこと。なんびたりとも理解されない私だけのテリトリー。あまねく群青色の宇宙空間の隅で、ひそかに玲瓏と輝き続けている。それが私。私だけの怠惰。
     理解――などは到底されるはずもないし、こちらからもする必然性も道理もまるでない。
     一から十までないない尽くし。否定の権化でもあるが、積極的に叩き潰すのではなく、どこまでも忌避し逃避し続けるがゆえの退廃的な侵食風景だ。
    「紅茶でございますよ~♪ ケーキと一緒にお召し上がれ~♪」
     紫がうきうき顔でやって来た。何が嬉しいのかわくわくしているのか、私には全く伝わらないがどうでもいい。
    「あむ。このケーキ美味しいわね」
    「そうでしょうそうでしょう。はい! コトミ様も一口どうぞ!」
     不意の催促。食べたくは――ない。
    「……………………(あーん)」
     私はケーキの一欠片を口まで持っていく。が、あまりにもその動作が遅すぎたので、二人は私をそっちのけでまた会話に没頭してしまった。
     骨折損のくたびれもうけ。ただ腕を上方に持ち上げた手前、それを完了せずに戻すのはばつが悪いように思えた。
    「……………………(もぐ)」
     これは――やはり美味しくない。体が拒否している。私はやはり越境の異星人なのだろうか。
    「それであの聞いてくださいよタミコさん!」
    「何ですかキョウコさん?」
    「私……今安眠術に凝ってるんでございますよ」
    「安眠術……? あなた不眠症だったかしら」
    「いえいえ! 安眠術です安眠術。催眠術じゃあありません。人を穏やかな眠りに誘う、素敵な安眠術です!」
    「は、はぁ……」
    「たった二万円で安眠術の通信講座を習いました。これからの時代はこれですわ! ささ、タミコさんも私と一緒に安眠術の道を究めましょう。時代は私達のような人材を求めているのですわ!」
    「キョウコさん……。あなたそれ騙されてるわよ? いつか変な宗教に洗脳されるわ。気をつけなさいよあなた」
    「いえいえ! 私は本気で……」
     蚊帳の外。意味を成さない音声振動記号。
    「……………………(早く帰って欲しい)」
     欠伸が出そう。でも私はしない。まぶたがひっつきそうになる。彼女らの抑揚のない念仏が、私にとってこの上ない安眠術だと思った。
    「タミコさん、これ見てくださいな。この近くで殺人事件……ですって!」
    「あらキョウコさん。新聞を見るのがご趣味なのね。このご時勢珍しいわ」
    「被害者は包丁で……抉り取られたような深い裂傷を……。
    「あら本当に怖いですわぁ……」
     二人はいつの間にか新聞記事の話題に、深く拘泥するように没頭していた。
     殺人――事件。殺人、事件だ。つまりは字面の通り人を殺すことだ。
     殺人とは、うん、やはり元来怠惰すぎる私にとってはとてつもなく遠い事象にであるように思う。
     包丁を持ち、ぐっと意志を固めて、きちんと殺傷し得る物理ベクトルで、予知される刑罰の災害に警戒しつつ行為を速やかに行わなければならない。
     つまりは非常にエネルギーを使う。後片付けにも余計に気をつかわなければならない。面倒、至極面倒。
     うとうと。私はもっと何もせずに眠っていたい。私が人を殺すとしたら、眠るような凍てつく怠惰で殺してあげたい。私は何もしないけれど、他人に一切気遣いする気は微塵もないけれど、朽ち果てるように侵食風化する悠久の時の中で、その最期を静かに看取ってあげたいような、そんな後ろ向き二百歩の消極的殺人ならまぁまぁしてあげてもいいと思う。
     とにかく私はもうかなりだるかった。
    「はぁ……。本当に恐ろしい世の中になったものです。どうかコトミ様も気をつけてくださいね」
     緑が思い出したように私の方を向いた。
     大丈夫よ――と私は心の中で唱えた。外には出ない。時の流れの緩やかなこの空間で、私は死ぬまでのレクイエムを囁き囀り続けるのだから。
    「……………………(これ)」
     乱雑に破った白いノートの切れ端。私が欲しい物を一覧に細かく書いてある。前もってこうしておけば簡単だ。口で話すよりも無意味な愛想の表情を作るよりも、ずっともっと簡潔で理想的な伝達行為。
    「あっ了解しましたコトミ様。それではそろそろお邪魔だから……」
    「コトミ様! 今度来たら究極の安眠術をかけてあげますね! どんな不眠症でもたちどころにスヤスヤのおねむでございますのよ……」
    「……………………(こくん)」
     私にだけ感知できる角度のおじぎで返す。
     何と言うか紫に呆れる。私は不眠症らしい不眠症に一度もなったことはないから。いついかなる時でも――鬱蒼と湿った森の眠り姫のように、すぅすぅと王子様を待ちながら寝息をたてることができるのだ。
    「……………………」
     二人は――帰った。
     私の時間。私だけの空間。
     まばらに潜む蔓草の伸縮が、私の細い体に絡みつき四肢の自由を穏便に奪っていく。音もなく脈拍もなく景色もなく、私があるがままの静寂を共有する、たった一人のアンテーゼの逸脱として健やかにその萌芽を希望しているのだ。
     とにかく――寝よう。疲れた。
     陰鬱なる現実の瑕疵爆撃を修復するために。私は眠る。いつまでもぐぅぐぅと恣意的に眠りこけるのだった。


    「……………………(ぱちり)」
     目覚め、起床。復刻して――夜。
     昼夜逆転でもない曖昧な体内時計が雲雀のネジを巻く。
     何か飲まなきゃと思う。無論、私が口に放り込むものなんて、多くて二つしかないけれど。
    「……………………(ごくごく、はぁもぐもぐ)」
     寝起きには何か入れたいと思う。消化吸収したいと思う。そうでなければ人間ではなくなる。朝起きて、人でならぬ何かに変容するのもそれはそれで楽しいが。
     白いほのかな甘味のある乳性の固形物。牛の、家畜からできる組成物というけどたぶん栄養はたっぷりだと思う。だってこんな私が今まで生きていられるんだもの。
     一つだけでお腹いっぱいになる。収縮し続けるブラックホールとは真逆の、怠惰に収縮するホワイトホールが私のへそ粘膜の裏側に位置している。
    「……………………」
     物憂げに、無言で体を起こす。暗い、ほの暗い。
     月明かりにカーテンがうっすらと恐怖をしている。
     外――。私が外界へ旅行したのはいつの時だったか。
     必要も理由もない。この数メートルでプロローグからエピローグまで簡単にループできるからだ。
    「……………………(でも、久しぶりに)」
     明暗の名案? 私はひらめいたのかしら?
     この渋滞を打破するたった一つの解答が、今一文字に私の喉笛を噛み切ってくれたような気がした。
    「……………………(と、すると)」
     私は外出するための衣服を探そうとした。一番白い、一番汚れていない白いワンピース。そのおぼろげな記憶だけで期待に高揚する。
     堆積物の山という山。けれど、私にだけは場所がわかる。記憶ではなく当然の存在位置として目標物を予言しているのだ。
     そして、あった。私はいそいそと着替える。ついでに下着もかえた方がいいかしらもなんて。別に何があるわけじゃないけれど。妙にうきうきとした気分で底なしの沼地から息継ぎをしてみた。
     言うまでもないが、私はやせっぽちなのでブラはつけない。こんな貧相な胸を隠すいわれもないし伝統もないし。何より余計なものを装着するのは当然のごとく面倒だから。
    「……………………(準備は――できた)」
     とにかくやっと私は玄関までたどり着いた。自分自身としては気持ちが高ぶって早送りにしてみたつもりだが、ここまで数十分は浪費してしまったかもしれない。
     ううん、それでもいいの。きっと夜は長いから。お月様とお星様が、私のために時の門番クロノスに催眠術をかけてくれるから。
     サンダルらしきものに足をつっかける。髪はとかしていないが私はサラサラだと思う。
     ガチャリと重いような金属音で、優柔不断な開かずの扉がついに口を開けた。
     私は――自由。今、そんな気持ち。
    「……………………(ラララ――歌いたい)」
     声を出してスキップしたい。私のイメージ。けれど声も出ないしスキップはできない。
     衰えた声帯と脚力が私の期待をせきとめて落胆させる。
     それでも――私は歩幅広く意気込んでみた。
     見て、私はあまねく星空の妖精タイディ。ちょっとのんびり屋さんだけど、心はとっても純粋で一番綺麗なの。
     美人な人。性的魅力のあふれる人。みんな差し置いて、きっと私を選んでくれる王子様。私の心の殻を優しく破ってくれる。私にとっての逆説的なファム・ファータル。かけがえのない1カラットを保有する、ベガとアルタイルが子午線で口付けをかわすような。
     そんな彼なら私も何かしてあげたいと思う。指が一本しか動かなくても、頑張って二本動かしてあげたいと思う。もう一歩しか歩けなくても、うんうん唸りながら一歩半の妥協を叶えてあげたいと思うし。
    「……………………(ラララ、ラララ――)」
     私はまさしく妖精となった。妄想にメロディー乗せて、虹彩に内包する難解なアカシックレコードに思いをはせながら。
     こんな軽やかなリズムはいつぶりだろう。
     着地。
     物語はピリオドを打った。
     小宇宙を駆け巡る消化管が私に力を与えたのだと思う。だが実際は非情だったようだ。
     私の感覚ではゆうに数十キロを走破したように思えたが、ほんの五メートルほど。やせ細った筋肉が地面に牙をむくには程遠かったようだ。
     でも、いいの。私は私なりによくやったから。
     そして――人影。
    「……………………(あっ)」
     それは運命的な出会いだとあらかじめ知っていた。緑と紫が今日来たこと。あの新聞記事。全ては白馬の王子様に会うための、極めて用意周到な伏線操作が考案されていたのだと思う。
     私の服装は、白いワンピース。膝が隠れるくらい。白い肌で、素足にサンダルだ。長く手入れのしてない髪を振り乱し――ろくに鏡をみてない酷い顔で……。いや、今は私は星空の妖精なんだから、それぐらいは譲歩されるはず。
    「……………………(ねぇ王子様。あなたが本当に王子様なら)」
     彼に声をかけてみる。声は出てないけど目と体で訴える。彼は酷くやせ細っていた。私ほどじゃないけれど。
     なぜだろう。どうしてだろう。呑気な私には到底想像つかない。
     ただできることは――。
    「……………………(見て)」
     私のとった行動は酷く淫らで穢れていた。しかも私が最も嫌うであろう、自ら積極的に他者にモーションをかけるという、自身の存在意義を自問自答する代物だった。
     ワンピースの裾をつまみ、そっと持ち上げてみる。
     赤の他人。初めて会った。男の人。誰か素性もわからぬ異邦人に。
     白く細い太ももがゆっくりと露になる。疑問。こんな骨と皮ばかりの棒切れを、どうして性的煩悩に訴えかけられると思ったのか。今の私はもう奈落の崖下へとダイブしていたのかもしれない。
    「……………………(あぁ)」
     彼の視線。ふらふらと泳いでいたけれど、段々私の方に向いている。私に興味を持っている。こんな、幽霊みたいな風貌の私を。もしかしたら本当の幽霊だと思っているのかもしれない。でもいいの。彼が私の行動に少しでも反応してくれていれば。
    「……………………(もっと、見たい?)」
     心の中でそう言ってあげた。ほとんど肉の削げ落ちた名ばかりの太ももで、私は一世一代の誘惑を仕掛けてみた。
     うふふ。見たかったら見てもいいよ。ほら、月明かりに照らされてこんなに綺麗。道に迷ったあなたを魅了するには十分の代物でしょう?
     ほら、こんなに細いのよ。あなたの腕よりもきっと細いわ――なんてそれは言いすぎかしら? ねぇ早く来て? 私と一緒に妖精の世界で厳かな語らいを始めましょうよ。
    「……………………(うふっ)」
     私は――笑った。口角をほんの一ミリほど。
     それがおそらくは決定打になった。
     彼はゆっくりとゆっくりと私の方へと歩いて来た。闇夜の視力でも、彼の容姿が明らかになる距離に。
     私の好み? いや、見てくれの好みなんてよくわからないしどうでもいいし。
     それよりも大事なのは――私よりもほんの少しだけやる気が上なことだけかしら。
     気づけば目前におよそ80センチ。唇は触れ合わない距離。ロマンチックとは言いがたいお互い面倒な境界線。
     本当に、本当に面倒だけれど。彼を、私は手に入れたいと思った。男を。きっと運命の人かしら?
     私の部屋へ、鬱屈した古時計が眠るあの歪んだ空間で、そこに連れ込めばきっと虜にできると確信した。
    「……………………(来て)」
     おいでのポーズを人差し指だけで。
     ……おいで、ついて来て。私がこんなに必死で誘っているのよ。あなたはそれに従うだけでいいはずよ。ううん、わかってるの私は。あなたと私が似たもの同士だってことが。誰かに運命を委ねたいのでしょう? だからそれは今。私はおそらく知っている。
     ねぇ一緒に溶け合いましょう? ほら、私の住まう蜘蛛の巣へいらっしゃい。食べてあげる。なんて。ゆっくりゆっくり、時間をかけて意識も感知もすることなく、甘い蜜のような怠惰に包みこんであげる。
    「……………………」
     私は変な妄想をしながら彼を見えない糸で引きずった。
     この時の私はダークヒーローならぬ闇のヒロインだった。男を淫売宿に連れ込む娼婦と思われても仕方ない。でもいいの。これがたぶん最後の誘惑になると思うから。
    「……………………(入って、もう少し)」
     半開きのドアに、するりと私がすべりこむ。薄い壁画のような私。そして片目の隻眼で彼の次の動作をじっと見つめた。
     大丈夫。糸は彼の足にも手にも心臓にもきっと絡みついている。怠惰に付随する負の欲望――。傍観する彼の貪婪な性癖に確実に火花を散らせていると思った。
     一分が、二分が、正確な刻みは神々の頂きへ。私と彼だけの静謐な時間。
    「……………………(ありがとう)」
     彼は入ってくれた。無論、私が呼び寄せたのだが――結果的には同じこと。
     後はほんの一押しすればいい。どこ? 私は本能的にも知っているし、不可思議に及ぶ文字列の集大成の中から一つの解答を既に導きだしていた。
     音もなく彼の後ろに回る。そして張り付く。
    「……………………(落ち着くでしょう? 今あなたに刻印を授けてあげる)」
     彼は頭一つ分私よりも大きい。ズボンの前にするりと手を伸ばす。見えなくてもわかる。彼は勃起という海綿体が膨張する現象に悶えている。
     禍々しくも妖艶な漆黒の鉤爪で、無防備な前頭葉にさっくりと奇怪な手術を今施してあげるの。
     逃げ場はどこにもないはずよ。ほら怠惰の憂鬱な匂いをかいでごらんなさい。いい匂い。芳醇な香り。脳髄を麻痺させ判断力をなくす魔性のパヒューム。
    「……………………(ちょん)」
     気持ち、薬指で触ってあげた。それなのに、彼ったらびくんと二センチほど飛び上がったのがわかった。
     ちょっと可愛いと思った。
     もう私は寝てるだけでいい。全て終わった。疲れたし。白いベッドでぐっすりと惰眠をむさぼりたい。
    「……………………(はぁ)」
     身を横たえてみる。彼は――うずくまっていた。なぜだろう。なぜ彼がここにいるのだろう。いやもう儀式は終わったのだから考えないようにしよう。思考が鈍磨になりねじれていく。皆無になるシナプスの明滅率。そして広がる空白のナショナリズム。
    「……………………(最後に)」
     眠りたい。眠りたいけれども。彼には意志を伝えてあげたい。
     足の裏、きっと足の裏がいい。私の白い足に、足に、足に足に――。
     そう願っていれば伝わるだろうと思った。
     闇は落ちた。するすると緞帳は下り、ギロチンのごとく私は押しつぶされた。


    「……………………(はっ)」
     目覚め。まだ夜。それほど時間はたってないらしい。
     そうだ。彼は……。
    「……………………(あら)」
     足元に何か違和感を感じる。これはそう、舌――。
     彼は私の足の裏をぺろぺろと舐めていた。私の思いは通じていた。さすが私の彼だと思った。私が口に出さなくても、ほとんど目だけで意志をくみとって、例え寝ていても何でもしてくれるような素敵な人。
     そう、これは神様が与えてくれた運命の出会い。そうとしか考えられない。そうでなければ寝てる間に女の子の足を舐めるなんて、絶対に起こりえないもの。
    「……………………(こっちも)」
     そっと寝返りを自然にうつ。今は右足を舐められていたから今度は左足。ちゃんとわかってくれるかしら? 受け取って、ほら私からの恋文を、あなたならきっと――。
    「……………………(ああ)」
     やっぱり舐めてくれた。嬉しそうに愛おしそうに舌をはわせてくれた。まるで子犬のよう。私のペット。世界で一つだけの愛玩動物。
     彼との相性は、雄ネジと雌ネジがぴったりと合わさるぐらい抜群みたい。単純に嬉しい。もっと楽しませてあげたい。もっと私の魅力にはまらせてあげたい。こんな私だけれど。あなたのほんの少し段違いの愛情を、全て私を楽しませるために注いで欲しいと思った。
    「……………………(次はここ)」
     私はいやらしいことを考えてしまった。ご褒美? そうかもしれないしそうでないかもしれない。
     指の股を広げて見せ付ける。一本の足に四つの溝がある。二本合わせて合計八つの溝だ。
     ここも舐めてもらいたい。足の裏も舐められるのなら、大して差異はないと思う。ああでも。
     私がシャワーを浴びたのはいつごろかしら? 浴びたは浴びたとしても、しっかりと足先まで石鹸をくぐらせるなんて全く記憶には存在しない。
     この谷間には――積もり積もった怠惰の蓄積が――それは私の全てであり――明朗活発な分泌物の六法全書。
     いや特に難しく考える必要はない。私は正しい食事をしているのだから、排泄物にも濁りはほぼ存在しないのだ。
     私は綺麗。何もしないから綺麗。紫外線なんか浴びないお姫様。誰もがうっとりするような美貌――外に出るのが面倒だから、日の目に晒されることはないけれど。
     王子様は来てくれた。私の寝所に忍んで来てくれた。
     私の足を舐めるために。指を股を舐めるためだけに。
    「……………………(ほら迷わなくていいよ)」
     固まっている彼に促してみた。誘惑してみた。足の親指と人差し指の間、一番美味しそうな味がしそうな部位。ぐにぐにと前後左右に動かしてみた。
     ほら来て? これが私。そしてあなたが求めているもの。ねぇ……ねぇ……私の鐘を鳴らして。暗い黒魔術の結婚式。嫌われ者の魔女の秘薬で、私達は真のつがいになれるから――。
    「……………………(あんっ)」
     私の意志が通じたのか、彼の頭が鉄砲球のように飛んできて、濡れた舌先が白い溝へとすべりこんでいた。
     本当に、犬のよう。息をはぁはぁと荒げて。もう私の指しか目に入っていないみたい。
    「……………………(いいよ。もっとして)」
     彼は必死だった。皮膚がふやけるぐらい唾液を丹念にまぶして。長年にわたる皮膚の老廃を、私への愛を触媒にしてビーカーという聖杯に溶け込ませていく。
     ああ気持ちいい。本当に気持ちいいわ。心が洗われるよう。見せ掛けだけの残酷な石鹸分で、無理矢理こすりとるような野蛮な真似じゃないわ。
     いいよ、もっとして。私を食べて。それは私。私の心がそこから広がっていくの。ほら、私はまだ七つも残っているわ。私を感じて。もっと、もっと繊細にじっくり味わって……。
    「……………………(あっ)」
     思わず声が出そうだった。彼の舌が今度は人差し指と中指の間に。ああ本当に可愛い。そんなにがっついて舐めるほど私が好きなのね。いいわ。もっと愛してあげる。愛してあげるから――もっと時間をかけて……のろのろゆっくり……私はゆっくりが好きだから。
     一つの溝につき最低10分かけて欲しい。だから全部終わるまで……ふわぁ1時間半もあればいいかしら。まだ眠たい。夜は長いから……もっと楽しめる。何もしないで、私はただ眠りこけているだけで――。


    「……………………(ん)」
     再びの覚醒。そうだ……彼は――?
     ちょうど左足の薬指と小指の間を舐めている最中だった。これはとても都合がよかった。
     ちゃんときっかり時間を使ってくれたみたい。私の体内時計がそう言っている。
     彼とのつながりが深まっているような気がした。何かご褒美、何がいいだろう? 彼が一番喜ぶもの――。
    「……………………(何がいい?)」
     私は顔をちょこんと持ち上げていた。私が白いベッドに横になってから、ゆうに数時間がたってから、初めて彼の方に真剣に視線を送ったのだった。
    「……………………(ふーんそう)」
     物言わぬ彼。けれど私には大体わかった。あなたも結局助平な男の子だってことね。
     そのぶら下がった一物を女の子にいじられたいのね。いいわよそれが望みなら。でも私はとてつもなく面倒くさがり屋だから。私が直接してあげるのは遥か西遊記の旅路よりも長く険しく困難なはずだわ。
     毎日、毎日来て欲しい。夜に。
     そうしたら願いを叶えてあげる。あなたの望み。私の足の裏に粗末なオチンチンを擦り付けたいのでしょう? 変態。射精もしたい。どくどくと白い液体を。
     いっぱい我慢させてあげる。今日も舐めている間カチカチにしていたのよね。無駄に我慢汁垂らして。今度からカーペットを汚したらそれも舐めさせてあげる。案外それは名案かもしれない。
    「……………………(楽しみね)」
     私は目で合図した。彼がぴくっと震えるのがちょっと嬉しかった。




     彼の夜這いは率直にいうと三日続いた。
     その後はとんと音信不通になってしまった。いや、元はといえば私の勝手な都合だ。年がら年中暇な私の、自分勝手なスケジュール帳だ。
     彼の都合も当たり前にある。彼は普段何をして何を考えて何を食べて――。
     ああなんで心がこんなにも揺らぐのだろう。そういえば彼の名前さえ聞いてなかった。
    「……………………(はぁ)」
     短い嘆息。二人はつながっている――なんて確信しながら私は馬鹿だ。千載一遇のチャンスを逃してしまった。
     涙が出た。悲しい涙。後悔の涙。私はそんな他人に捧げる涙なんかないはずなのに。
     今は彼のために涙を流した。
    「……………………(うぅ)」
     ひとしきり泣いた。すっきりした。もう寝ようと思った。
     彼は――最初から存在しなかった。そう思って自己肯定した。


     それからまた何日かが過ぎた。
     彼は依然として来なかった。
     そして、緑と紫も現れなかった。二日三日、予定の日を超過しても。
    「……………………(こない)」
     私が日を間違えている可能性もあったがやはり音沙汰なかった。
     一体、どうするのだろう。この山という山。いくら怠惰を司る私でも――この無限の広がる小宇宙を制御する力はない。
     そうか。私は悟った。己の卑小さを醜さを。
    「……………………(ごく、あーん)」
     最後の水滴を、名残惜しそうに逆さにする。これで、もう私が飲める水分はない。水道水を選ぶという概念は無視している。
     チェックメイト。簡単に詰んでしまった。
     ただそれが私の人生。このまま心臓が止まり脳が止まり部屋と一体になり、悪魔でも天使でもなく神でもない、理解の届かない茫洋かつ曖昧な何かになるのだと思う。
     私には生存本能はあるのだろうか? 待って、限界まで待ってみればおのずと発現するのかもしれない。
     数時間が経過。血液は滞る。近づく死。理想的な自死でありスーサイド。
     もう何も考えずに寝ていれば、
     目をつぶる。瞼の裏側に焼きつくのは誰の残像かしら? 彼、そうだ彼はどうして――。
     うん、私はまだ真実を知っていない。ここで死ぬのは――ある特殊視点から俯瞰する場合において理論的ではない。
     私はおかしくなっていた。望まれた死に際であったはずなのに、運命の交差点に頭から飛び込んでみたかった。
    「……………………(まだ)」
     右手だけはかろうじて動いた。その指がつかむもの、天意でもなく栄光でも名誉でもない――パンドラの箱から這い出る無数の百物語。
     一枚のしわがれた印刷物――これは。
     殺人鬼。そう、彼女は積極的に死を支配する人間だ。怠惰を断ち切り過去を亡き者し未来へと昇華させる、まるであおつらえ向きに用意された三途の川辺鬼。
     彼女に会えば――きっと彼に会える。妄想の飛沫が幻想へと。
     今度はもっと優しくしてあげたい。千時間や二千時間ぐらいかけて、10本の指であなたの股間を悩ましくさすってあげたい。焦らして焦らして、発狂しそうなほどの忘我さで。
     何なら足の裏にも擦りつけていいわ。私は眠っているだけだからそれが一番楽。私に魅了された瞳と心で、何も考えずに腰を振ってしまうの。私が眠っている間、何時間でも何年でも太陽が爆発しても宇宙が壊れてもそうし続けるの。
     あなたのスイッチは私の起床だけ。目が、ゆっくりと開いたら、その時は射精してもいいよ。私のために、あなたの愛をしっかりと受け取ってくれる。無限の期待を内に秘めた――迸る白濁をどくどくと漏らして完全なる一つの涅槃となるの。
     よかった、まだ私はこんなに想像できるじゃない。
     起きて、立つ。平たい床に二本の釘を刺す。
     新聞の切れ端を握り締めて――私は駆け出した。
     朝方の霧が鬱積して、一寸先も見えない雲行きだった。裸足で歩くのはミクロの逆数千里でしかなく、つまり現実単位でわずか150メートルに匹敵する。
     私のタイムリミットは実にそれしかない。体力的にも精神的にも由緒ある関門はことさらに楔を打ち込んでいた。
     彼女に会いたいそして彼に会いたい。私の魂をかの幻想世界まで届けてくれるのならば、身を切り刻む悪夢の疼痛を儚く受け入れようと思う。
     折れたように、足はぎくしゃくとして動かない。当たり前。繊維がぷちぷちと悲鳴を上げて分断されていく。心臓から肺臓に至るまで、ひっきりなしに急き立て叫喚し絶望的な青絨毯に血糊をべったりのさばらせていく。
     もう――歩けない。
     でも、辿りついた。
    「……………………(私を)」
     見つけた。あの残像記憶は間違いない。
     白い霧に悠然と跳躍する、巨人のような凶刃が薄高く笑っていた。
     はた目には自殺かと錯覚する、極めて驚異的で積極的な死のバージンロードに感応していた。
     ぜぇぜぇぜぇと息が酷く荒い。ただし、神様は最後に私を救ってくれたみたい。 
    「……………………(ころし――)」
     言いかけた刹那、にやりと黒い影法師が空間を切り裂いた。いや、私の方眼紙パピルスもまぜこぜにして真っ二つに溶解させた。
     崩壊する痛みも緩やかに――けれど反射する感覚もそれを上回る怠惰レベルを超越した。
     ――これで彼に会える。
     そう思いながら、静かに瞳を閉ざして眠った。
     




    1. 2013/10/25(金) 22:44:08|
    2. SS
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